この手紙は「君が倭奴の病棟に選ばれたその翌日から、殉士と庶民の奴らは日々我が家に来て米を後ろに奪っていき、配給は七分くらい与えるので、家の家族は飢えて死んだ」と当時日帝の過酷な収奪状況を告発した。
この手紙は「あなたの父と幼い弟の3人はすべて飢えて死んだ」とし「私はあなたの父に従う」と書かれており、筆者が自決を控えて書いた絶命記であることを明らかにしている。
この手紙は引き続き「君は倭奴らの軍隊にいる間、いろいろな方法を尽くして倭寇の大砲と戦車、飛行機を秘密に破壊して使えないようにしろ」とし「さらにいなければ倭寛の長官を殺して重要な文書を盗んで私たち独立軍や(同)盲軍隊に駆けつけ、力を合わせて敵の倭寇と最後まで戦え」と繰り返し復讐を呼びかけている。
この手紙は「必ず敵を返済してください。敵はなぜ奴だ。四月十日。語/米絵」と文を結んだが、1945年4月、光復軍の「日本軍内韓人闘争指針せん断」とともに発見された点に照らして、類似の時期に作成されたものと推定される。