日本書紀の百済本紀依存度JPG

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(1)ガガガ
(2)12月05日音

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(1)12月05日音
(2)25年531冬12月丙申初日庚子天皇を藍野陵に葬ったある本には天皇が28年甲寅年に亡くなったという しかし、ここで25年に亡くなったと言ったのは『百済本記』を取って書いたものだ そこに「辛年年3月に軍隊が進み安羅に至り5001を築いた。今月、高はその王シュートを
(3)殺した註002もまた、日本の天皇と太皇区が一緒に死んだと聞いた」とした。これによって言えば辛年年は25年に当たる 後に学校する者は知れ
(4)乞毛城の正確な位置はどこなのかよく分からないが、安付近と見る見解があり「三国史記」巻34地理志に居として出てくるプル州と見る見解もある
(5)王安を殺した 『』 19では安蔵王519~531義を安とし、13年5月に亡くなったという 『安将王の死についてただ死んだとだけ言い、日本のように王』には殺害したという記録は見当たらない

自国の天皇太子皇子が亡くなったことを他国の歴史書である百済本記から引用する
実は日本書紀は720年に作られ、日本が漢字を書いて歴史を記録し始めたのが500年代
戦後と推定される上、当然最古の正史記録が日本書紀であるため、200年前のあの当時の
歴史は口伝としてのみ伝えられたり、一部の野史記録があったり、日本よりも早く歴史記録を始めた
韓半島国家の史書に出たりする場合がほとんどなので、史料を外国から探すのも当然ですが

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